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強羅開発の区画割と箱根登山鉄道   ~勝俣洋一さん手記より~

  • 執筆者の写真: 杉山洋美  (小堀昌子 / 内田博)
    杉山洋美  (小堀昌子 / 内田博)
  • 8月10日
  • 読了時間: 2分

吉田初三郎の強羅公園絵図を見たうえで、以下のような話を頂いた。

この当時(開園時期)の強羅の分譲体制は、区画の面積が大きく、財閥の人たちの入手を重視したもので、一般庶民の人たちには手が届かず、商人たちも開店できない状態であった。

強羅開発と販売が進む中、大正8年に登山電車、大正10年にはケーブルカーも開業されて一大リゾート地が誕生した。

しかしながら、その後、小田原電気鉄道には不幸が重なった。


 大正12年(1923年)2月 1日 小田原電気鉄道本社  火災にて全焼

 大正12年(1923年)9月 1日 関東大震災 登山電車沿線被害甚大

 大正15年(1926年)1月16日 温泉村小学校前陸橋より脱線転覆し、国道に墜落(死傷者多数)


小田原電気鉄道は、経営危機になり昭和3年(1928年)1月20日に日本電力に吸収されました。

しかしながら、日本電力は電力供給会社であり交通運輸事業とは異なるため、わずか7か月間で交通運輸事業を切り離し、その年の8月13日に箱根登山鉄道株式会社が誕生した。

箱根登山鉄道の初代社長に就任した池尾芳蔵は、昭和3年8月から昭和16年1月までの長期間就任して、新しい強羅の基礎も築いた。経営の厳しい状況の中で、資金面の調達に、強羅駅周辺や強羅公園付近を小規模の区分面積で、入手しやすく分譲販売したことやいろんな商売にも展開したようだ。この時期に、今の強羅につながる発展の基礎ができたと思われる。


※強羅公園と強羅駅周辺が再開発され、種々に挑んだ施設
※強羅公園と強羅駅周辺が再開発され、種々に挑んだ施設


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