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大雄山最乗寺箱根別院

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【この掲載情報は精査・調査中のものです(2024年3月現在】

箱根町宮城野の郷土史探求家”勝俣洋一氏(昭和14年2月20日生)"などの資料提供

およびお話を参考に大雄山最乗寺箱根別院に関しての一時的にまとめました。

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南足柄市にある600年の歴史を持つ曹洞宗の大雄山最乗寺の第八世山主”新井石禅禅師の時代、大正5年に小田原電気鉄道から強羅開発の守り本尊の祈願所として、大雄山最乗寺箱根別院の勧請・建立を懇願されました。

当時、紀綱河合真英禅師、片桐慈光尼および小田原電気鉄道の協力により、箱根別院の建築に着手するのも、第一次世界大戦中であったがため、木材の運搬が思うように進まず、先に観音堂を建てて道了大菩薩をご遷座し、「道了尊祈願所」とし、箱根別院ははじまった。

その後、本格的な本堂の建設にとりかかるが、大正12年9月1日の関東大震災がに襲われ甚大なる被害を受け工事は中断。第十世山主”伊藤道海禅師”のときに、参籠室と報恩閣、天祐閣、光明塔、宝殿等を建築し、早雲山山上より湧出する温泉を引き浴室も建設。最乗寺山内より報恩院の寺号を移し、大正14年10月に無事に完成させ、「大雄山最乗寺箱根別院報恩院」として一大霊場とした。

しかしながら、その当時の建物と建立場所は現存する箱根別院と違います。

昭和28年7月26日午前10時15分ごろ、梅雨の間に数十日間降り続いた雨で箱根別院の裏側の早雲山斜面に亀裂が入り、幅200m、深さ20mの土砂が長さ2kmに渡って流れ落ちた。

松田実業学校(現在:立花学園高校)の生徒が箱根別院の手伝いで参籠していたが全員無事であった。しかし、箱根別院で働く人や参籠客ら10名がなくなり、重軽傷者13名を出す大惨事となった。境内約500坪の流出と、大正14年10月に完成建てられた10棟463坪の諸堂は全壊した。大雄山最乗寺では災害以後、毎朝、毎夕のお勤めに「箱根全山遭難横死者諸精霊」に対する回向をささげている。

昭和32年4月、元の場所から箱根登山ケーブルカーの早雲山駅寄りに移して再建築され、昭和38年に第十三世岩本禅師によって再建された。

境内には、御真殿、報恩院、去来庵、光明塔、鐘楼堂、絵馬堂などの諸堂とともに、犠牲者の慰霊のための供養塔も建立された。

※供養塔は、箱根別院修復工事の請負業者であった勝俣組社長”勝俣勘太郎氏”と箱根建設社長の”勝俣甲子一氏”と相計り、私費をもって建立。


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<補足情報>

◇早雲地獄、大地獄、小地獄

 明治天皇が箱根にご来訪の折り、小地獄を小涌谷、大地獄を大涌谷、早雲地獄を早雲山の

 改名することを提案したのは、箱根湯本で福住楼を営む福住正兄と言われます。

◇早雲地獄の湯(大雄山最乗寺箱根別院源泉井戸覚書)

 源泉深度350m エアー官・楊湯官各85本×4m=340m

楊湯温度 50度  楊湯量 毎分70リットル

 浴槽の温度効率を保つため、男女浴槽に毎分12リットルを必要とする

 かけ流しとして、源泉分析表に表示する。

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