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強羅開発に「片桐慈光と大雄山最乗寺箱根別院」


大正時代の強羅地域の別荘地開拓において、大雄山最乗寺箱根別院が遷座されることに関して記録されている片桐慈光さんの手記の写しです。(昭和18年(1943年)ごろの手記)

※一部言い回しだけ修正して掲載しています。

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 私が強羅館におりましたのは、大正3年の頃かと思います。

強羅館は塔ノ沢福住の支店で宮城野と強羅の間あたりの所にございました。

そのころ、登山電車は大平台のトンネル工事中でございました。

 ある日、会社の社長の草郷清四郎様と副社長の中根虎四郎様から私へのお話で「お前は東京にも澤山立派な知合を持っているから、この強羅の土地をその人たちに買ってもらうよう骨折くれぬか」とのお話がありました。会社は3百万円の資本であるのに5百万円からの借財があったのでこの土地を売らなければならなくなったのです。私もこの土地で社長様や副社長様にもお世話になっておりますから、さっそく東京へ出かけまして第一番に「福澤桃介様、星一様、藤山雷太様」にお話しましたところ、さっそく承知してくださいましたが、なかなか土地を見に来てくださいません。それでやっと福澤様が見に来てくださいましたのはその翌年の事でございました。それから知合のお友達さんなどがだんだんにお連れに来てくださいまして、それからどしどし土地が売れてまいりました。これが強羅発展の糸口でございました。

 土地が売れ、電車が延長するについては土地の守護神というものがなくてはいけないからということを私が申し上げましたので「それではどこでもお前がよいと思うところを選びそのところに祭るから」とのことでございましたが、「私はそんなことは出来ません」と申してお断りいたしました。ところが私が口火を切りましたそのため土地がどんどん売れました時に私のいる強羅館も売れてしまいました。

 私の居るところもなくなってしまいました為、それでお前のこの土地に居ればもっと土地も売れるだろうとおっしゃって星さんと福澤さんが私に「一福」という宿屋をこしらえてくださいました。「一福」の「一は星さんのお名前」で「福は福澤さんの福」を取ったものでございました。それで私もまた一生懸命土地の繁栄するにつけてもどうしても守護神を祭らなければならぬことを申しましたので、星さんの発言で道了様をお祭りしようということになりましたのです。

 ケーブルのその頂きは夜業をして工事を急いでおりました。道了様をお祭りすることに決まりはしたもの、まだ土地が決まりません。

 ところが、私がどこかの土地を私の紹介で大勢の方へ売りました為会社では私へ礼金をくださるとのことでしたが、私がたってお断りをしたので「早雲山の所を七千七百坪あまりをお前にやるから」とのことで会社から頂きましたのでそれではその所へ道了様をお祭りしようということになってその準備にかかり、新井石禅師をお願いして土地を見て頂きましたところ、「宜しかろう」との事で私の頂きました土地を道了様のお敷地に寄付いたしました。

 そして、お堂を建てるのに就いていろいろ奔走いたしましたが、丁度、日独露戦争直後の事とて、なかなか寄付が集まりならず、土地もあり、大工も来ていながら木材が運搬されてこないという有様でした。そのところで兼ねがね観音堂を建立したくと思って材料もあるのを知ってる大工がひとまず観音堂を先へ建てたらということでその方を先へ建てることになりました。もともとこの観音堂は土地の人たちの御詠歌をあげるところに思って発願したものですが私が申し付けませんので大工さんがこの観音堂の地下をすっかり納骨堂に作り上げてしまいました。そこに今では、禅師様の分骨が納めてございます。

 道了様も方も放ってはおけませんので私もいろいろと骨を折りまして、やらやら落成いたしまして新井禅師をお願いして遷座式をして頂きました。

 その後、新井禅師は鶴見の総持寺の貫主となっておしまいになりましたが最乗寺の方から時々交代して坊さんが道了様へ来てくださっております。

 道了様へ参詣するにも強羅の景色を観勝するためにも是非早雲山へケーブルカーを早く通じるようにしなければならぬので夜業かけて工事を急ぎその試運転の時の綱も私が切りました。

 それよりずっと前、観音堂を建立しましたすぐ後で新井禅師からのお言葉で私は禅師様のお弟子となっておりましたので「一福」も辞め退いて道了様の別院に今では住んでおります。新井禅師は十七年前に遷化になりまして伊藤道海禅師が最乗寺の山主となられました。

 そのころから一層早雲山の道了様も繁栄して参りました。私の住んでおります別院はその伊藤禅師に私の別荘を寄進いたしましたもので禅師はそれに「天祐閣」と名付けられそのところに私は現在はもう剃髪して住んでおります。伊藤禅師も一昨年遷化されまして新井禅師とともに観音堂に分骨してございます。

また別院方丈の村田さんのお骨も納めてございます。

この観音堂も新井禅師が「光明塔」と名付けてくださいました。

※昭和十八年頃の手記

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<補足説明>

 大正3年 (1914年):強羅園(箱根強羅公園)の開園

 大正8年 (1919年):箱根登山鉄道開通

 大正10年(1921年):強羅大文字焼始まる、ケーブル線開通

 大正12年(1923年):関東大震災

 昭和18年(1943年):学徒出陣、山本五十六大将戦死(”元帥の仇は増産で”が流行語)


 強羅館  :清水仁三郎(京都出身・実業家・政治家)が開設。

 草郷清四郎:小田原電気鉄道第四代社長

 中根虎四郎:小田原電気鉄道第五代社長

 福澤桃介 :福澤諭吉の婿養子。電力王との異名もある。

 星 一  :星製薬の創業者。東洋の製薬王。

 藤山雷太 :藤山コンツェルン設立。実業家。

 道了様  :箱根外輪山の明神ケ岳の中腹に立つ曹洞宗の大雄山最乗寺の創建に

       貢献した道了という僧が、寺の完成と同時に天狗になり身を山中に

       隠したと伝えられることから、道了尊と呼ばれており、庶民に

       「道了様」と親しまれています。

 観音堂  :現在も箱根別院境内に光明塔として現存。

 一福旅館 :強羅駅から徒歩1分もかからない場所にあった。現在は駐車場だが、

       旅館入口の岩石に「一福」と彫られたものは残っている。

       ※強羅「薬師の湯 吉浜」の隣にあった旅館です。

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(参考:強羅という土地と片桐さんの強羅館とは)

強羅は、早雲山の山裾に位置し、岩石が堆積した扇状地状の斜面沿いに広がります。「岩石がゴロゴロしているところ」は「ゴーラ」と名づけられることが全国的に多いようです。

強羅は、もともと宮城野村の村有地で、明治21年(1888年)に村の財政上の関係から梅屋旅館の鈴木牧太郎(足柄下郡温泉村底倉)に金650円(現在約1,300万くらい)という金額で払い下げられました。

強羅は、明治中頃までは、山桜などの灌木・山百合などが生い茂る雑林地帯でした。明治21年に早雲山噴煙口から早雲館所在地まで自然流出の温泉を引き入れる工事がされるぐらいの開発しかなかったが、その後、東京の酒問屋を営んでいた山脇善助が所有していた時代から開発が進み、香川泰一の所有する時代には、宮城野から強羅を縦走して早雲山にいたる道路も完成。明治40年には、仙石原村の石村菊治が、強羅開発に対して大涌谷温泉の引用権を提供しており、それにより数か所に新温泉口が開削されました。その当時の強羅所有共有者の一人である清水仁三郎は、自ら温泉旅館と銘打った「強羅館」を開設。この強羅館に片桐さんはおられたようです。(どのような立場かは不明)

※片桐慈光尼:仏門に入る前は、片桐サクさんで、京都出身の一福旅館経営、強羅開発な

 どの課題を議論した「五日会」の参加もしている。(大文字焼の企画なども参加)

(引用・出典元)

箱根登山鉄道のあゆみ(発行:箱根登山鉄道社史編纂委員会)

ワンコインシリーズ5 箱根温泉の歴史(発行:箱根町教育委員会)


<箱根強羅の歴史は、箱根強羅観光協会をご参考に>

<強羅 一福旅館については、大正八年の組合員名簿に記載あり>

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