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宮ノ下が、わたしを生かしてくれる、生かされている  

元波英敏(もとなみひでとし)さん

宮ノ下のカフェ『カフェ・ド・モトナミ』店主

昭和28年2月16年生/67歳/取材日:2020.7.14

新潟県上越市、昔の直江津市の海のすぐそばで育ったという元波さん。直江津高校を卒業後、デザインの勉強をするため東京へ。「面白いこと、興味があることは、とりあえずやってみようという生き方」で、デザイナーからカフェオーナーへ、東京から宮ノ下へ。人に生かされ、出会いを生かしていく元波さんの箱根人ストーリー。

●デザイナーからペンション経営へ

20歳すぎて、東京のデザイン学校を経て、テキスタイルのデザイン会社にへ入りました。カーテンの図柄とか、百貨店の売り場のデザインを5年ほど経験した後、友だちとデザイン会社を起こしましたが1年くらいで解散し、白馬でペンションを始めたんです。それが25~26歳の頃です。

白馬でペンションを始めたのは、スキーが好きで、スキーをやりながら仕事できないかなと。それと小さい時、妙高高原の山小屋に毎年家族と行っていたんですが、そこの人たちがすごく親切で居心地がよかったんです。その時の想い出がむくむくと芽生えてきて、ちょうどペンションがブームになったことも手伝って、友だちと一緒に始めたんです。

ペンションの中にアトリエを作って、テキスタイルのデザインをやりながらペンション経営していました。それが当時は珍しかったので、ある時、女性誌にペンションが一面で紹介され、それをきっかけに軌道に乗り始めたんです。それからは宿泊業の仕事につくようになっていきました。

●富士屋ホテルに惹かれ、宮ノ下へ

30歳くらいの時に、ペンションをプロデュースする会社の社長に誘われて、会社直営の日光にあるホテルのグランドオープン立ち上げスタッフとしてお手伝いに行きました。3年くらいで軌道に乗せて、次は伊豆高原のペンションに3年いました。その頃、友人に「箱根でいい物件があるけどやってみない?」という話があったんです。

箱根ってやっぱりブランドなんですよね。

箱根に友だちがいたので、伊豆からしょっちゅう家族で遊びに行ってたんです。 車で行くと、宮ノ下の入り口、138号線の木賀(きが)のあたりから風景が違ってくるんです。緑が深くなって、左が早川渓谷で、もみじがすごい綺麗で、しばらく走っていると富士屋ホテルが出てきてこのセピア通りに入ってくるんです。コロニアル風な不思議な空間というか、宮ノ下は今までの箱根とちょっと違うなぁという印象があったんです。

富士屋ホテルにすごい惹かれていて、この宮ノ下の町並みにも惹かれ、さらにそのペンションが、富士屋ホテルの創設者・山口仙之助さんの息子さんで二代目の脩一郎さんお孫さんがやっていらしたと聞いて、「じゃあ、やってみようか」と会社を退職して、自分で一からペンションをやってみることになりました。そこから宮ノ下に移り住むことになったんです。それが、38~39歳の頃だったと思います。

●フレンドリーな宮ノ下の風土

私がはじめたペンションは、「外国人が日本に住んだらこういう風になるんだろうな」というコンセプトをもとに、料理は洋食で、日本のアンティークなインテリアをところどころに散りばめて、でも雰囲気はモダンみたいな・・・。自分で考えたコンセプトのお宿だから屋号もそのまま自分の苗字を使った『元波館』という名前にした感じですね。

宮ノ下という場所は、皆を温かく迎え入れてくれる風土があるんです。富士屋ホテルのスピリットが大きく影響があるんだと思います。富士屋ホテルの創設者も横浜から来て箱根全体の発展に貢献した方なので、そういうスピリットが宮ノ下の皆さんもお持ちなんですよね。気品があって、気位も高いですが、来た人にも全く差別なくて、「一緒にやりましょう!」みたいな。僕が来たころの富士屋ホテルの人たちはフレンドリーで面白かったですね。

そういう意味では、宮ノ下に「生かされた」っていうところがありますね。

町の掃除とか、自治会の行事とか、何でもかんでもみんな一生懸命やるところなんです。だからそういうのに参加してたし、町の消防団にも入りました。消防団の年齢制限が40歳だったので、「元波さん、今入らないと入れないから入ったら」と言われて、消防団に入るなんて考えてもいなかったのですが、それが大きかったですね。いろんな町の集まりに参加したことが、僕の人生にとってものすごくプラスになりました。

●本気で叱ってくれた平賀敬さんとの出会い

小田原で画家の平賀敬さんの展覧会を見て感激し、宮ノ下の会報誌の題字を書いてもらおうと、湯本の平賀さんの家を訪ねたんです。

平賀さんはお酒が好きで、お酒を飲みながらいろんな話をさせていただき、将来はどうするのかという話になったんです。その時は、「箱根である程度頑張って、お金を残して、ハワイにでも移住しようかと」そんなことを言ったんです。

そしたら急に怒られて・・・、ものすごい真剣に怒るんですよ。「お前は何しに来たんだ」と。「宮ノ下に来た縁を大事にして、死ぬまで宮ノ下のために一生懸命働かなきゃだめだ」と・・・。見透かされたというか、「そんな考えじゃダメだ、地に足をつけないと、宮ノ下にも箱根にも生きていけないぞ」と、そんなことを言われたのは人生で初めてでした。

それで、目が覚めたというか、考えさせられましたよね。

「もっと頑張んなきゃいけないんだ。地に足をつけるってこういうことなんだなぁ」って思い、それからいろんなことを始めました。駅伝のイベントとか歓迎イベントを人の力を借りながらやったり、商店会の役員になったり、街角アートみたいなことを始めたり、新しい息吹を宮ノ下に植え付けたいっていうか、やらなきゃいけないんだという使命感みたいなものが、平賀さんの一言で出てきたんです。平賀さんのご家族も宮ノ下を応援してくれて、すごく感謝しています。

●『カフェ・ド・モトナミ』誕生のきっかけ

ある日、地域の会合の帰りに、『山田家』の奥さんと一緒になり、「この建物の持ち主が手放したいらしいから「元波さん買ってくれない?」みたいなことを言ったんです。「いやー、そんなちょっと無理ですよ」とその時は言ったものの、この建物に興味はあったんです。当時は外観の原形がわからないくらいにサイディングが貼ってあって今の雰囲気はなかったんですけど、屋根の形状とかがちょっと富士屋ホテルみたいなモダンな様式の建物で、「あーいいなぁ」と思っていたので、悩んだ末に買うことにを決めました。

当時のままでは使えないので、銀行に融資を頼みに行ったんですが、新規で建築許可を得られるような建物、例えばRCで3階4階建てならいいですよという回答でした。この雰囲気のある歴史ある建物を壊して今風の建物にするのは、町並みのことを考えても忍びないなぁと思い、ちょっと計画を放っておいたんです。

2~3年後、カフェブームになって、改めて「こういうコンセプトで、町を生かして、柱を残して、改修したいのですが」と銀行に話を持っていったんです。そしたら、考えがわかる人に出会えて、「面白そうだからやりましょう」と理解をしてくれました。

その時の改修のコンセプトは、「昔に戻す!」でした。

消防団で出会った嶋写真店の嶋さんから「元波さん、こんな写真があるんだけど」と言われ見せてもらったら、大正時代の頃のこの建物の姿で、「なんて素敵な建物だろう!これに戻そう!」と。さっそく友だちの建築家に相談し、その1枚の写真から全部図面を起こしていただいたんです。

工事に入り、サイディングを剥がすと元の家の形が出てくるんです。天井を外し、床をはがし・・・。どんどんその形が出てくる、出てくる。その時が一番面白かったですね。

そして、カフェを2002年にオープンしました。

●『カフェ・ド・モトナミ』のこだわり、そして次世代へ

元々「苦めのコーヒーとそんなに甘くない小豆」の生活をしていて、そういう店をやろうと。小豆は北海道、砂糖も北海道の『ビート糖』、テンサイのお砂糖で、作りたてでないと甘さがどんどんなくなっちゃう。 2~3日するとその糖分が消えていくので、必要な分量だけ小豆を炊いて作るしかないんです。でも、ビート糖は味わいが違う! すっきりしていて口の中で甘さがすっと抜けるっていう。最初、それを食べたとき、「これいいね」って一番しっくりきた味なんです。

今は、娘にも手伝ってもらっているんです。娘は嶋写真店に3年ぐらい勤めていて、嶋さんと一緒に婚礼の写真をずっと撮っていたんですけど、1~2年前に自分で写真をやり始めました。娘には自分の世界観というのがあって、アーティストの卵みたいな友だちや音楽やっている子たちもいるので、そういう子たちにギャラリーとして自由に使ってもらいたいなと思っているんです。

元々、そういう趣旨でこのカフェを始めたんです。当時は僕の知り合いで個展をやってたんですけど、そういう人たちが今では有名になっちゃって、だったら原点に戻って、どんどん若い人に育ってほしいなぁと、そういうのもいいかなと思っています。

そして今、頑張っているのは、散歩道を作ることですね。使わなくなった昔の道を整備して、復活させ、活用しようと。駅に行くまでの道を観光客に歩いてもらえるように標識を新しく作ったり、観光客の散歩ツアーとか一生懸命やってるんです。

この前の台風で早川渓谷の道もずいぶん荒れちゃって、それも修理して歩けるようにするとか、やることたくさんあるんです。

宮ノ下って何もないんですよね。美術館があるわけでもないし、今まで先人の方が作ってくれたものを「もう一度掘り下げて大事にしていく!」というのが、今いる人たちの使命かなぁと思っています。

ただ、その作業が大変なんです。『四季の湯座敷』武蔵野別館のご主人がものすごく協力してくれてるんです。すごいパワーですよ。あと常泉寺の住職さんも。家の軽トラ使って、この道具があるからみんなでやろう!とか。そういう賛同して協力してくれる方がいるんですよね。

みんなに声をかけるのは僕の役目で、「若い人、集まって」っていう、そういう仕組みがちょっとずつ稼働しつつあるかなと思ってます。若い人を引っ張れるのも、消防団に入っていることが生かされています。私は、人と出会いに恵まれていると思います、きっと。


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