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江戸時代の旅人たちが味わったその変わらぬ甘酒の味。山本聡(やまもと さとし)さん 箱根甘酒茶屋第十三代

江戸時代に官道に定められた東海道。江戸・日本橋を出立し、小田原宿を過ぎると、箱根の山々が目に飛び込む。“天下の嶮・箱根”越えは、旅人たちを悩ませた難所だった。次の箱根宿まで約四里。くねくね曲がる“七曲り”の急な坂道を上り、疲れ切った旅人たちが、途中でひと休みしたのが、街道沿い点在していた簡素な甘酒小屋だった。旅人たちは、温かい甘酒を口にし、箱根関所まであとひと越えへと、また歩を進めた。そして、箱根関所を通過した西からの旅人たちは、江戸までもう少しの道のりと、ホッとひと息ついたのが、“甘酒小屋”だったのだ。

 いま、箱根旧街道東坂の“笈平(おいたいら)”の近くにある「甘酒茶屋」のルーツはそこにあり、山本聡さん(昭和42・1967年10月26日~)は、十三代目になる。江戸時代から続く「甘酒茶屋」は、いまや箱根でも人気のお店の一つとして広く知られ、訪れる人は絶えないが、これまでの道のりは決して平坦なものではなかった。特に、明治時代に国道一号線ができてからは、この旧街道が急速にさびれてしまったのだ。

「祖父母の時代には、おそらく、一週間に一人、あるいは10日に一人位のお客さましか立ち寄られなかったのではないかと思います。当然、生活は成り立たず、祖母(ユキさん)が細々と店をやって、祖父(春雄さん)は芦之湯の旅館『きのくにや』に勤めていました」。

電気が通ったのも昭和39(1964)年。それまではランプの生活。水も水源地から竹の筒で約1キロメートルも引いてくるという不便な生活。会社員になり、小田原に住まいを持った父・達雄さんたちが、両親に「店はやめて、便利なところに越そう」と話しても、二人は頑として聞き入れなかったという。

「いまでも日本橋から京都まで歩かれる方があって、お手紙をいただくんです。『箱根湯本から甘酒茶屋までの距離がいちばんキツかった。もうダメだという時に紺の暖簾と籏が見えて、助かった!そこで飲んだ甘酒が美味しかった』と。祖父母になぜ続けたのかについて聞いたことはありませんが、『美味しかった、助かった』という方が週一人でもいらっしゃれば、その一人のためにでも店をやめようという思いにはならなかったのでは、と推測しています」。

 達雄さんは、春雄さんが亡くなった昭和48(1973)年に会社を早期退職をし、12代目を継いだ。そして、聡さんは、地元の高校を卒業後、一度は外に出てみたいと、縁があって京都の老舗懐石料理店「辻留」に修行に出た。そこで奥様の昌子さんと出会い結婚。32歳で箱根に戻り、店に入った。

「甘酒茶屋」は、茅葺き屋根に土間。明るい照明もなく、古き時代の民家そのものだ。10年前に建て替えられたものだが、前の店より間口は一間狭い。

「普通、建て替える時には、広くするのでは?」という問いに、「父は、『屏風と店は、広げると倒れる』というのが信条なんです」。

また、床の間の端の壁が塗らずに残されている。設計者が意図的にそうしたという。“不完全”に美を見つける日本的な考えでもあり、不完全だからこそ、まだまだ繁盛していくように努力していかなければならない、ということのようだ。

 いつ訪ねても、聡さんは柔らかい笑顔で出迎えてくれる。そして、昔懐かしい民家で味わう添加物ゼロの昔ながらの甘酒とおいしいお餅が待つ甘酒茶屋は、訪れる人の心の芯まで温めてくれる。「昔の旅人は、日の出とともに宿を出立して、次の宿まで行ったそうです。私たちも、そのスタンスで商いをしています」と、甘酒茶屋の営業時間は、“年中無休、日の出から日の入りまで”。

昔からのやり方でこれからもこのままでいいのか、と時々ジレンマに陥ることがあるという聡さんだが、“一人のお客様でも大事にする”という先祖の想いを引き継いだ謙虚な店のあり方に、「いまの形こそ箱根の宝」と、訪れた人のほとんどが考えることは間違いないだろう。

【甘酒茶屋】

■〒250-0314神奈川県足柄下郡箱根町畑宿二子山395-28

■電話:0460-83-6418

■アクセス:箱根湯本駅から箱根登山バス(K路線)約26分「甘酒茶屋」下車すぐ。


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