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伝統の味にフレッシュさを加えて名菓を作る杉山隆寛(すぎやま たかひろ)さん ちもと代表取締役

箱根を代表する銘菓「湯もち」をはじめ、箱根のエピソードなどに因んだ名前をもつ「八里」(第17回全国菓子大博覧会・名誉金賞受賞)や「与五郎 忍」(第19回全国菓子大博覧会・名誉金賞受賞)ほか、かずかずの銘菓を変わらない味で作り続けている「ちもと」が、箱根で創業を始めたのは昭和25(1950)年。令和2(2020)年で創業70周年を迎える。

「三河(愛知県東部)出身の祖父(隆男さん)は、当時東京の銀座にあった『ちもと総本店』で働いていた長兄を頼って上京し、丁稚奉公をしていました。大旦那の松本三冬さんは、営業成績の優秀なものに職人をつけて暖簾分けをするという考えだったようで、『これからは箱根が伸びるだろう』と、営業成績で頭角を現していた祖父に暖簾分けをしてくれたのだそうです」

「『ちもと』のそもそものルーツは、骨董店を営み財を成していた松本さんが、明治維新で傾いた江戸幕府御用達の菓子屋を買い取り、店名をご自分が気に入っていた歌舞伎の演目『義経千本桜』の『千本』を『ちもと』と訓読みにして名付けたのだと聞いています」と、「ちもと」三代目の杉山隆寛さん(昭和50・1975年11月25日~)。

 隆男さんと妻・信子さんは、自分たちの代だけで店は閉める心づもりだった。しかし、隆寛さんが三歳の時に体調を崩した母・和江さんが実家に戻り、三人で切り盛りをしていたが、隆寛さんが小学校に上がる前に隆男さんが亡くなり、以後は信子さんと和江さんで店を続けていった。

幼い頃から店を継ぐようにとは一切言われることもなく、自分自身もまったくその気持ちはなかった隆寛さんは、成城大学卒業後、日本生命に入社。隆寛さんは「一生、この会社でサラリーマンとして過ごす」と考えていたが、入社三年目の平成12(2000)年11月に和江さんが他界。信子さん一人が残された店を継ぐ決心をしたのは、葬儀に参列した支社長の「日本生命は君がいなくても潰れることはない。さっさと辞めて帰れ」という言葉だったという。

「社会人としての一から十まで全て教えて下さり、僕が全幅の信頼を置いていたこの方の言葉は大きかったです。それで腹が決まり、翌年3月に退社しました」。

箱根に戻った隆寛さんは、昼間の仕事が終わった後に東京のお菓子の専門学校に通う生活を2年間続けた。

「実際に自分で菓子を作り始めた時、もっと美味しくできる方法があるのではないかと思いました。もちろん、それまでの味も悪くはないのですが、祖母は私が小さい頃から東京や京都の老舗の食事処などによく連れて行ってくれていました。それが私の味覚を育てる舌のトレーニングになっていたようで、私自身が“美味しい”と思う味に近づけたいと考えたんです」。

材料や基本の配合は変えずにオーブンの温度を調節するなど、こまかいところに留意するとともに、目指したのは、フレッシュさ。「ちもと」には冷凍庫はない。商品にもよるが、作り置きはせず翌日にはほぼ全品を入れ替えるという。

「ここまで来るのに職人たちとも度々ぶつかりましたが、いまは私の考えを理解してくれるようになりました」。

 伝統の味を守りつつ、独自の工夫をしていく。そのこだわりこそが多くの人に「ちもと」の菓子が長く愛される所以である。

昨年、工場を建て直し、「ちもと 滝通り本店」を開いた。また今年は、「駅前通り店」横の駐車場を子供連れの人でも安心して休むことのできるスポットにするなど、時代に即した店の形にしつつ、隆寛さんが湯本の人たちと一緒に力を入れていることの一つは、「湯本夢夏祭り」である。

「これは私にとって恩返しなんです。いわゆる母子家庭だった私を父親代わりになってくださった方がたくさんいらっしゃいました。そういう方に育てていただいたから、大きく曲がることもなくここまでやってこられたと思っています。“子供たちを笑顔にしたい、夢を与えたい”と頑張っている大人たちの姿を見て、彼らが“湯本って楽しいね”“大きくなったら箱根に戻ろう”と思えるような街にしたいと考えています」。

【湯もち本舗ちもと】

〇滝通り本店

■〒250‐0311神奈川県足柄下郡箱根町湯本509

■アクセス:箱根湯本駅より徒歩約10分。

〇駅前通り店

■〒250-0311神奈川県足柄下郡箱根町湯本690

■アクセス:箱根湯本駅より徒歩約5分。

■電話:0460‐85‐5632(代表)


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