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強羅大文字焼の大法要を続けて           ~大雄山最乗寺 山田紀綱老師~

  • 執筆者の写真: 杉山洋美  (小堀昌子 / 内田博)
    杉山洋美  (小堀昌子 / 内田博)
  • 7月19日
  • 読了時間: 3分

大正5年(1916年)ごろに、強羅開発に伴いその土地の守り神として、

現在の箱根登山ケーブルカー早雲山駅から徒歩10分程度の早雲山山麓付近に

道了尊祈願所が設置されました。

当時の大雄山最乗寺第八世の山主 新井石禅禅師は、「強羅への道了様設置は、

道了様の徳化を広く示すことができる」と喜ばれていたという記録が

大雄山誌に残っています。

建立当時は、第一次世界大戦や関東大震災の影響もあり、大雄山最乗寺箱根別院としての正式な開山は、大正14年10月になりました。

さて、大正8年(1919年)6月に箱根登山鉄道が開通後、強羅観光を課題とした

会議体「五日会」が発足され、小田原電気鉄道をはじめ実業家や片桐慈光尼などの

関係者が一福旅館で企画を重ねて、大正10年(1921年)に明星ケ岳山頂付近で大文字焼がはじまりました。

今もなお100年以上続く観光行事であり、当時は避暑客の楽しみでしたが、現在では

有縁無縁の霊を慰めるうら盆の送り火として執り行われています。

その強羅大文字焼は毎年8月16日に行われており、数十年間大法要を毎年執り行って

いるのが、大雄山最乗寺の山田紀綱老師です。(2025年よりご退任され顧問に)


山田紀綱老師は、昭和10年(1935年)生まれの89歳。

大山町(6か町村の合併にて現在は伊勢原市)の農家の次男坊で、

戦時中は、ご自身が住む伊勢原市から、横浜の空襲の空爆の雲の様子や平塚の焼夷弾の空爆で火の柱が立つ様子(火がついた爆弾が飛行機から落ちるため)を子供ながら見ていたそうで、今なお記憶に残っているそうです。

※平塚は、海軍の火薬製造の工場があって空爆対象となっていたようです。

また、米軍の戦闘機が空から機銃で人を撃ち殺す様子も見たり、戦後は、

アメリカ進駐軍の車列にも遭遇して、米軍兵士からチューインガムやチョコを

もらって、「こんなおいしいものがあるのか」と本当に思ったそうです。


山田紀綱老師は、18歳で横浜ゴムに就職して10年間勤めました。その会社員時代に結婚して、2人の子供も授かっています。結婚相手の奥さんの実家は、伊豆修善寺でお寺のご住職をしており、山田紀綱老師はお寺を継ぐことをもとめられ、なんと、横浜ゴムを退職してお寺を継ぐ決心をされたそうです。

その後、修行として、大雄山最乗寺に赴き、結果的に、60年弱近くも最乗寺にいることになりました。当時の奥さんの実家のご住職の指導は厳しく、「修行の身であるため簡単に帰るな」という教えであることから、早々には修善寺に戻って住職として暮らすことができなかったそうです。


山田紀綱老師は、8月16日の強羅温泉大文字焼の日には、強羅には一人で来ることなく、修行に来ている若手のお坊さんも必ず連れてくるそうです。荷物持ちや運転手代わりに連れてきているだけかと思っていましたが、理由はそうでなく、

「毎日精進料理ばかりだから、外に出て少しでも若い者がうれしがるものを食べさせようと思って」と、ボソッと話されたていました。

その時の山田紀綱老師の横顔はやさしいお父さんの感じがしました。


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