郷土愛にあふれる孤高のレジェンド大場庄之助(おおば しょうのすけ)さん  実業家

実業家・大場庄之助さん(大正3・1914年7月25日~平成23・2011年2月17日)に初めてお目にかかったのは、平成17(2005)年4月10日、大場さんが私財で設立した「函嶺(はこね)ふるさと集蔵館」のオープンの日だった。当時91歳。スッと背が高く、姿勢も良いその姿には、まったくその年齢は感じられず、ご自分が創った博物館がオープンしたことにも喜びを前面に出すわけではなく、古武士のような雰囲気を讃えていらしたことが印象的だった。

 また、やはり大場さんが私財で開園された「箱根・芦ノ湖野草園」を訪れた時に、しっかりした足取りで散歩されたり、高台にある藤棚のベンチに座って、眼下に広がる芦ノ湖を眺めておられる姿をたびたび見かけたが、近づいて声をかけることはためらわれた。なぜなら、野草園で過ごすその時間は、大場さんにとって何よりの安らぎのひとときだと感じさせられたと同時に、どこか近寄りがたいまさに“孤高”という表現がぴったりの佇まいだったからだ。

 大場さんは、野草園や集蔵館のみならず、老朽化した箱根の寺社の建物再建に多大な資金を出されたり、元箱根の裏山の藪を切り払って数百本の椿や山茶花を植栽し、平和を祈る愛らしい「和福(にこにこ)地蔵」を設置した「椿公園」を創るなど、故郷・箱根の発展のために惜しみなく私財を費やされた。

いま人気の「箱根七福神巡り」も、昭和後期に大場さんが中心になって集客のために企画したものである。各寺社に祀られている彫刻家・伊藤光治郎氏作の木彫のご本体は、大場さんが寄付したものだ。それについては、箱根のどの資料にも記されていない。それは、名前を表に出すことがお好きでなかったからだと当時を知る人からお聞きしたが、亡くなられたいま、私たちは知っておくべきものだと考える。

 大場さんは、日本家屋の土壁作りに欠かせない竹材を扱う大場家の4男として誕生した。昭和5(1930)年に起きた北伊豆地震では箱根も多大な被害が及び、その砂防工事を行う事務所に勤めた後、東京に出て、建設機械の修理業を始めた。昭和15(1940)年、26歳で三英社製作所を創業。翌年に太平洋戦争勃発。戦争が激しくなり空襲によって電柱は倒れ、電線が焼けただれているのを見て、各種電気計測類の修理業に携わるようになった。その後、電気工事を扱う会社を興すなど、会社の規模は徐々に大きくなっていったが、経営をある程度任せられるようになってからは、箱根で過ごす時間も多くなり、箱根との関わりを深くしていったようだ。

「箱根・芦ノ湖野草園」と「函嶺ふるさと集蔵館」のエピソードも紹介しておこう。

昭和天皇が箱根神社に参拝においでになった時、奉賛会会長だった大場さんが境内をご案内した。昭和天皇に境内に咲いている花の名前を聞かれた大場さんは「雑草です」と答えたという。「雑草という名の草はありません。どんな草にも名前があります」という昭和天皇のお言葉は広く知られているが、この時にも大場さんにそうおっしゃったそうだ。大場さんは、「いや、とても恥じ入った」と知り合いに話したというが、それが野草園を開くきっかけにもなったようだ。

 集蔵館の収蔵点数は約3,000点。鎧兜や書画骨董をはじめ、鍬や鋤、機織り機、古いガラス製品、薬箱など、昔の暮らしを伝える生活道具や雑貨も数多く展示されていた。これは、大場さんが大戦中、日本文化や伝統を伝えるものが焼け野原に打ち捨てられていることに心が痛み、子供たちに伝えるためにも残しておきたいと考えた品々だった。

 野草園には、1,000種以上の山野草が四季折々に可愛い花を咲かせていたが、大場さんの逝去とともに閉園。集蔵館も閉館となっている。

しかし、一つ残っているものがある。子供たちが芋掘りを楽しく体験できるようにと元箱根の丘陵地に大場さんが作ったサツマイモ畑である。一度私も芋掘りに参加したことがあるが、子供たちの様子を見る大場さんの眼差しは、どこまでも優しく、慈愛に満ちたものだった。その芋掘りは、地元の人によって受け継がれているが、そこにはいまも子供たちを見守る大場さんの愛にあふれる姿があることだろう。


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