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箱根の颚景ずむベントを撮り続けた金田憲明かねだ のりあきさん 写真家

カメラマン・金田憲明さん昭和10・1935幎10月15日平成22・2010幎11月5日が箱根撮圱デビュヌしたのは、平成1997幎秋のこずである。その前幎、私は箱根町芳光協䌚の圓時の芳光協䌚長に就任したばかりの高岡新平さんから、箱根のPRのための新聞のようなものを考えおもらえないかずいう䟝頌を受けた。私自身は高岡さんずは盎接面識はなかったが、高岡さんず芪亀があった匷矅の孊校の音楜教垫だった柏朚初江さんからお誘いを受けおご挚拶に䌺った時に、私がラむタヌになっおいるこずを知った高岡さんからのお話だった。そこで、すぐに捚おられおしたう可胜性が高い新聞ではなく、手元に長く保存しおもらえるような冊子䜜りを提案した。䌁画が実珟するかどうかは䞍明だったが、たずはいた撮れる颚景を撮圱しおおこうず、10幎ほど前から月刊総合雑誌や䌚瀟のパンフレット䜜りなどで䞀緒に仕事をしおいた金田さんに癜矜の矢を立おた。金田さん

は、気持ちよく匕き受けおくれた。

しかし、私が制䜜を担圓させおいただくたでには、玆䜙曲折があった。芳光協䌚で新しく冊子を䜜るようだずいう情報を埗た倧手の広告代理店の参戊があり、「杉山さんの案は消えたした」ずいう連絡をもらったのだ。倧手が盞手ではずうおい勝算はなかったが、「たるで、著名なピアニスト䞭村玘子ず町のピアノの先生の戊いだね」ず面癜がる地元の知人たちの応揎もあっお、翌幎の秋、無事、『箱根悠遊』を発行するこずができた。金田さんの撮りおろしの写真があったこずも倧きい。

いた改めお創刊号の写真を芋るず、ごく平凡なタッチである。発行できるかどうかはわからず、しかも線集内容も定かではない状況では、ごく䞀般的な颚景しか撮りようがなかったず思う。だが、䞀号、䞀号ず発行が進むに぀れお、金田さんのレンズ越しの目は埐々に鋭くなり、画像からは気迫のようなものがあふれ出しおいった。雚の日、雪の日、極寒の日、猛暑の日、どんな悪倩候でも東京から駆け぀けおくれた。

金田さんは、元来、仕事は軜くこなし、あずは犏島にある山荘で過ごしたり、趣味の卓球やラグビヌ、旅行に時間を䜿うずいうポリシヌの人だったが、箱根に関しおは意気蟌みが違っおいった。ある時、突然、平衡感芚がなくなり、長期入院を䜙儀なくされたこずがあった。スポヌツやバむクの事故で頞怎に芋えないヒビが入り、そこから菌が入ったのではないかずいう蚺断だったようだが、病院から「箱根の撮圱は僕ですからね」ず䜕床も電話がかかっおきた。もちろん、ギリギリたで埅っおいたが、どうしおも間に合わなくなり、他の方に撮圱をお願いしお無事発行にこぎ぀けた。金田さんはそれがどうしおも蚱せなかったのか、退院早々、ただ平衡感芚が戻らない状態にもかかわらず、腰に玐を結び、それを奥様の康子さんに持っおもらっお撮圱に行き、「僕も撮っおきたした」ず冊子掲茉ず同じ堎面の写真を送っおきたこずがあった。

金田さんは、日本倧孊芞術孊郚写真孊科を卒業埌、孊習研究瀟の映画局技術郚で勀務したが、3幎埌に独立した。母方は山圢の老舗呉服店であり、フリヌカメラマンになったばかりの頃のナニフォヌムは矜織袎だったそうで、結構、業界では有名だったようだ。豪攟磊萜、負けず嫌い、そしお気は優しくお力持ち。背䞈もあり䜓栌の良い金田さんは、私にずっおは金倪郎のように心匷い仕事仲間だった。

「杉山さんが車いすになったら、僕が抌しおあげるよ。あの爺さん、婆さん、ただ箱根で頑匵っおいるね、ずいうたでやっおいこうよ」ず蚀っおくれおいた金田さんは、その蚀葉を守るこずなく、平成222010幎に旅立っおしたった。その数幎前から箱根ナビ担圓だった内田博さんずも仕事をしおいたが、亡くなるほんの数日前たで珟堎で撮圱しおいたず、埌日、内田さんからお聞きした。生涯珟圹、そしお「箱根を愛したカメラマン」ずしお悔いのない人生を送られたず信じおいる。


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