箱根の玄関口・箱根湯本の早川沿いにある「萬翠楼 福住」の創業は寛永2(1625)年。箱根山屈指の老舗旅館である。福住治彦さん(昭和36・1961年6月29日~)は、十六代目としてその歴史と伝統を引き継いでいるが、その姿勢には何の気負いもなく、ふんわりと自然体である。
令和元年に至るまでの394年の歴史の中で、江戸末期から明治にかけて活躍した十代目・福住正兄(まさえ)(文政7・1824年8月21日~明治25・1892年5月20日)について、少し触れておきたい。相模国大隅郡片岡村(現・神奈川県平塚市片岡)の名主・大沢市左衛門の五男として生まれた正兄(幼名・政吉)は、21歳の時に父の勧めで二宮尊徳の門下生となり、5年間ほど生活を共に過ごした。そして、5年後の嘉永3(2850)年、代々湯本村の名主を務めていた福住家に養子に入った。当時、福住旅館は、湯本で起きた火災の類焼で家運は傾いていたという。しかし、正兄は、1年もせずに再興させ、再び名主を務めることになった。その後、箱根に来た尊徳は毎日のように正兄と面談していたと伝えられており、正兄は尊徳の教えを実践しつつ、地域のリーダーとして活躍していった。
正兄に多大は影響を与えたもう一人の人物は、福沢諭吉である。たびたび塔之沢温泉に逗留していた諭吉は、地元の主だった人たちと交流していたが、その一人に正兄がいた。諭吉は湯本温泉にも足を運び、二人の交流は深まっていった。正兄は、諭吉の近代的な地域起こしの考え方にも大いに共感。足柄県県知事・柏木忠俊や地元の有力者たちとともに、諭吉の「道路普請」の提言に取り組み、まず、板橋~湯本間に我が国はじめての有料道路を完成させた。また同時に、それまで湯坂山を上り下りして行き来していた湯本~塔之沢に車道を開通させるなど、箱根の近代交通の先駆者としても大いに力を尽くした。
正兄の時代、木戸孝允、山内容堂、昭憲皇太后、有栖川宮熾仁、伊藤博文、三条実美ほか錚々たる人たちが逗留しており、この旅館の歴史の重要なページを創っている。福住旅館には明治棟と昭和棟の二つの建物がある。明治8(1875)年に完成した「金泉楼」と明治11(1878)年竣工の「萬翠楼」は、西洋建築と数寄屋造りが融合する現存する希少な擬洋風建築として平成14(2002)年に国指定重要文化財に指定されており、当時の名残が色濃く残っている。
さて、治彦さんの話に戻そう。治彦さんは、少年時代より東京で暮らし、大学を卒業するとIT関係の会社に就職。30歳の時に、父・修治さんが亡くなり旅館を継いだ。
「実はそれまで福住家の歴史についてはあまり知ることはありませんでした。正兄についても、皆さまが取材にいらしたりする中で、詳しく知ったというのが実情です」。
“十六代目”としての旅館に対する想いをお聞きすると、
「私どもの商売は『企業』ではなく、『家業』なので結局、旅館の運営についてなどは、僕の器量を超えられないわけなんです。それは申し訳ないな、という思いはあります」とのこと。
「どうやって歴史伝統を守っていくか、という答えはまだ見つかっていません。正兄が福住家に養子に入るときに、尊徳先生から『只々宿屋の主であるべし。家業に励み、報徳の教えに基づき、正直と安値と貴賤の差別を置かぬこと』という言葉を授けられました。私もその言葉を胸に刻みつつお客様を迎えていますが、恐らく皆さんが期待しておいでになっている多くのことを裏切っているのではないかという思いはあります。
良くも悪くも、私はあまり商売っ気がある人間ではないので、その辺が人によってはほんわかした、いい意味で老舗のゆとりと勘違いして感じてもらえているかも知れませんね。それはただ、間が抜けているだけなんですけれど(笑)」。
ある旅館のご主人が「治彦さんが会合にいるだけでその場の空気が和むんです」と言っておられたことがあった。現在、「はこね学生音楽祭」のよき支援者として若者たちを温かく見守っておられるが、“和を以て貴しとなす”といったようなその“ほんわかとした”人柄によって、令和にふさわしい「萬翠楼 福住」の歴史は築かれていくことだろう。
【萬翠楼 福住】
■〒250-0311神奈川県足柄下郡箱根町湯本643
■電話:0460‐85‐5531(代)
■アクセス:箱根湯本駅より徒歩約5分。
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