現在、株式会社小田急エージェンシーの専務取締役・営業本部副本部長・コミュニ―ケーションデザイン局長の金野祥治さん(昭和34・1959年4月25日~)に初めてお会いしたのは、平成15(2003)年、金野さんが小田急電鉄株式会社グループ経営企画室(箱根統括会社設立準備室)のプロジェクトマネージャーを務められていた時である。翌年、小田急グループの箱根エリアを統括する「小田急箱根ホールディングス株式会社」が設立され、金野さんは同社で箱根エリア再生の業務を引き続き担うことになった。
当時私は、小田急箱根グループ公式HP「箱根ナビ」の取材をさせていただく以外にも箱根町観光協会発行の冊子「箱根悠遊」や同協会HP「箱根全山」、「はこね学生音楽祭」などの仕事をしていたこともあり、平成22(2010)年に小田急電鉄㈱のCSR・広報部長として転任されるまでの7年間、金野さんとはさまざまな場面でお目にかかることになった。
金野さんは、行政や地元の人たちと連携しつつ、箱根再生のためにまさに八面六臂の活躍をされていたが、いつお会いしても疲れた顔をされていたことはなく、いつも変わらない柔らかな笑顔のある表情が印象的だった。
金野さんは、学習院大学を卒業後、小田急電鉄株式会社に入社。鉄道会社を選んだのは、大学3年生の夏休みにボランティア活動でネパールに出かけたことが大きな動機になったという。
「それまで将来の職業については、漠然としたものしかなかったのですが、その体験を通して、何か人の役に立つ暮らしを豊かにする仕事に就きたいと思うようになったんです。鉄道会社は単に運送手段だけでなく、公共的な業務も手掛けている企業ですから、そこで何か自分なりのやるべきものが見つかるのではないかと考えました」。
さて、1990年代に起きたバブル崩壊後、国内のレジャー志向は団体から個人へと移り始め、箱根でもピーク時には2,247万人もあった観光客が2000年には1,904万人に減少。ロマンスカーの利用客も減り、保養所なども閉鎖されるなど、右肩下がりの状況となった。その打開策のために箱根町が立ち上げた「HOT21」という戦略会議に小田急も参加。それが金野さんの箱根での仕事の始まりだった。問題点を精査していくなかで、「もう一度しっかりした観光地に再生していこう」という機運が社内に高まり、11名のメンバーによる準備室が発足したのである。それに先立ち、前年の平成14(2002)年にイメージ戦略「きょう、ロマンスカーで」というCMがスタートした。そして翌年からは、準備室時代に綿密に練られた事業、すなわち「美しい観光地づくり-駅や港の看板―環境サインの統一」を初め、「交通網の充実」「箱根の名物づくり-箱根全山の名ホテル、名店のパティシエが腕を振るう“箱根スイーツコレクション”」などが着々と進められていった。"箱根スイーツコレクション”は、箱根を周遊しながら創作スイーツを味わえるとあって、若い世代にも受け入れられ話題を呼んだ。
「90年代にロンドン駐在していた時に、ヨーロッパ各地を回りましたが、どこを撮っても“映える”んです。日本もそうなるといいなと思っていました。いま駅名看板やスイーツは“インスタ映え”するとして、外国からのお客様も記念写真を撮っていらっしゃる。イメージ戦略や箱根全山の各施設との連携の成果などもあり、お陰様でここ数年、若い世代の観光客も増えてきています」。
「箱根は日本の箱根、世界の箱根、A級の観光地なので、自然を含め、箱根の持つ良さを守り育てていってほしいですね。小田急グループはそれを支える存在であり続けていけたらいいなという思いがあります」。
新しい箱根の魅力を生み出すために力を惜しまなかった金野さんは、「わが人生に悔いなし」とのこと。「社会や人の役に立つ仕事に就きたい」という初期の目的を見事に達成されたわけだが、今年(2019年)、台風19号によって多大な被害を受けた箱根山を一日も早く復旧させるためにも、金野さんの役割はまだまだ終わらないのではないだろうか。

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