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技術を磨き、箱根に貢献してきた

大場 脩市(おおばしゅういち)さん

宮ノ下の『大場木工所』4代目

76歳/取材日:2020.9.30


箱根神社の総代を20数年、伯父、大場庄之助が設立した『函嶺ふる里収蔵館』も立ち上げの時から事務局長を歴任。代々箱根のために尽力してきた大場一族のひとりで、箱根の歴史を知る生き字引的存在。建具職人として高度な技術をもつが、近年のモノづくりの考え方に疑問をもち、120年の家業の歴史に自身の代で終止符を打つことを決意した大場さんの箱根人ストーリー。


●富士屋ホテルとともに120年

私がこの家の4代目で、この家業をするようになってちょうど60年、初代が開業してからは120年ほどになります。

初代が携わった富士屋ホテルの一番古い建物から始まり、富士屋ホテルの建築にはほとんど関わっています。2020年7月にリニューアルオープンした今回の改修もやらせていただいています。

宮ノ下という地区は、職人の町なんですよ。川原さんというすごい建築屋さんがいて、ともかく仕事の鬼で、すごく厳しくて良い仕事をした人でした。富士屋ホテルも奈良屋旅館も川原さんがやっていましたね。川原さんは小田原の職人だったので、当時は通うことはできませんから、小田原などから板金屋さんや塗装屋さん、電気屋さん、左官屋さんなど、腕の良い職人をたくさんこの宮ノ下に結集させて仕事をしていました。

私もいい年齢になりましたし、5代目の息子は他の会社に勤めていますから、ご先祖さんには申し訳ないですが、だんだん仕事を縮小して、私の代で終わらせることにしようと思っています。今は私と弟と甥っ子の3人で作業をしているだけで、他に雇っている人はいません。


●大学進学をあきらめ家業を継ぐことに

私は、生まれも育ちもここ宮ノ下です。小中学は地元に通い、高校は小田原高校へ通っていました。そして高校を卒業してすぐ家業を継ぎました。

私の親父はすごく教育熱心でした。姉も妹も白百合学園からフェリス女学院へ行きましたし、私も早稲田大の建築科を目指していて、親父もそのつもりで、家庭教師をつけたりしていたし、成績もそれなりでした。ところが、高校3年の春に、東京オリンピック開催に向けて仕事が忙しくなると、親父は、「この家業は食いっぱぐれのない仕事だ。特に箱根は、それなりの建築ができるから、この家業を継げ」と言いだし、大学に進学することは断念しました。私は大学に行きたかったので、そのときは本当に残念な思いでした。

今では、私にとってこれが天職だったと思っています。大学で学べなかった4年間は、親父が鬼となって、私を仕込んでくれました。日頃は温厚な性格の親父でしたが、仕事のときは鬼でしたね。「体で覚え、脳で理解できるまで叩き込まなければ良い仕事ができないぞ」と、本当に厳しく教えられました。


●初代の曽祖父は、箱根権現を管理した代官

初代の曽祖父までは、士族で代官の職をしていたので、大場という姓は昔からありました。

私が言うのもなんですが、大場一族というのは名門氏族なんですよ。明治になる前までは、幕府から203石の領地米をいただいており、箱根権現を管理する代官だったんです。これが明治時代になって、廃藩置県で藩を全部潰して県にし、廃仏毀釈と言って、明治天皇が神様になるんだからと、仏をみんな廃棄しちゃったんですね。今、箱根神社の宝物館に重要文化財の仏像などが展示されていますが、本当はもっと多くあったようです。

曽祖父には7人の子供がいて、私の祖父が四男で、伯父、庄之助の父親が三男だったんです。生まれた時から、代官の息子ですから、廃仏毀釈で代官の身分をとられても、それほど生活に困ることはなかったようです。当時、芦ノ湖周辺の土地を多く所有していて、ひょろひょろっとした箱根竹という竹がたくさんあり、それが煙管や筆の部材に適していたので、その竹材を卸す商売もしていました。

ところが、芦ノ湯までつながった国道1号線の道路を、芦ノ湖湖畔につなげるための工事費用に投資したため借金を背負ってしまい、私の本家は芦ノ湖周辺の土地を全部手放すことになってしまったんです。


●建具屋の経営者だった祖父、職人の父

建具屋を始めたのは、二代目の私の祖父からで、昭和9年頃からです。今と違って機械で動かす時代ではなく全部手づくりでした。 50人ぐらいの職人を抱えた大親方でした。

でも祖父は、経営者であって、自分では作る職人ではなかったんです。この商売の経営者は職人でないとダメなんです。先代の私の父、大場金一がよく言っていました。私が継ぐときには30人くらい職人がいましたが、「職人に使われちゃダメだ、職人を使うんだ」って。「職人から尊敬される技量を持たないと、職人を使えないぞ」と言ってました。

高校卒業後の4年間の修行期間は本当に厳しくて、道具の使い方が悪いと「そんな使い方じゃダメだ」と言って、パンと手を叩かれました。


●第二の父、伯父の大場庄之助

私が高校の頃に、伯父の庄之助の会社がどんどん大きくなり、「大学に行かないならうちの会社へ来い」と言ってくれたんです。その頃、伯父に何かを言える人って私が知る限り誰もいなかったですが、うちの親父は、「うちの倅は家業継がせるんだからダメだ」と返事したんですね。

私の父と伯父は、金ちゃん、庄ちゃんと呼ぶ仲だったのですが、仕事の付き合いはしなかったですね。お互いに「こうしろ、ああしろ」っていうのは嫌だろうと。私の親父も仕事をやらせてくれとは言いませんでした。

親父が亡くなってからは、伯父も私に仕事を少し手伝えと言ってくれて、一緒にやりましたし、ずっと本当に可愛がってもらいました。親父が二人いるのと同じでしたね。でも、仕事ではほんとに怖くて、言ったことは曲げない人でしたが、私は一度も怒られたことがなかったですね。


●モノづくりの楽しみが失われた時代

私が、なぜ息子を建具屋に継がせなかったかと言うと、モノづくりが楽しくなくなったからです。

昔は「こういう欄間にしたいからお任せします」と言って、こちらに任せてくれましたが、今は設計屋主導で、設計屋さんが紙に書いたとおりに作らないとお金を貰えないんです。

私はこの仕事を60年以上やっていますが、最近では相談を受けることもほとんどないですね。大学を出たばかりの設計士が、確かに素晴らしい教育を受けてきたのでしょうけれど、机上の知識だけで「あれやれ、これやれ」で、こちらがアドバイスを言っても、全く聞く耳をもってくれない。たとえば、組子細工をするのにも、適した材料があります。外国産の木材は粘りがないので向いていないと言っても、設計士は外国産の安い材料でやれと、無理なことを言います。「できない」と言うと「なんでできないんだ」と、そんなことの繰り返しです。

私の先代もそうでしたが、任されたものを、施主さんに喜んでもらえるもの、よそ様にできない良いものを作る、それが私たちの役目だと思って日夜腕を磨いているんです。そういう楽しみがなくて、言われたままに作るのでは何の進歩もないですよね。ですから、息子もよく手伝ってくれていたんですが、息子には大学に行った頃から家業を継がなくていいと言いました。


●職人稼業の技術継承の難しさ

技術は門外不出で、自分が子供に教え、子供が孫に教えと、代々つながっていくものです。組合のような組織団体で、技術の指導をしている人はいますが、なかなか上手くいかないようです。私もそういうところで教えてやりたいとは思うのですが、私が先代に叩かれながら教わったように、教わる側にそれに耐えられるぐらいの気概がないと、続かないと思います。また、毎日単純なことを続けなければならないし、作業も汚れる商売なんです。 

皆さんから廃業は「もったいない」とよく言われますが、職人稼業は、この先どうなるかわからないですよね。ただし、テレビに出ている一部の左官屋さんなどは、趣向を凝らして、昔にはない良いセンスで、努力している人もいますし、懐石料理店やホテルのロビーなど、久住オリジナルといって、高値ですが、外国人に受けているようなことも聞きますので、そういう意味では、私の努力不足もあるかもしれないです。


●高度な組子細工『三つ組手』

昔は、和室の欄間に必ずあったのですが、三つ組手(みつくで)という六角形が基本の、高度な組子細工があるんです。白柿(しらがき)というカッターみたいなもので印をつけて鋸で引くんです。その寸法をいかに正確に作るかで勝負が決まるんですが、一つ間違っただけでもきれいな形にならない。できるようになるまでに10年はかかります。ノコギリとノミとカンナがあれば誰でもできるというものではないです。

最近では、MCという機械を入れて大量生産しているところが多くなりました。プログラムさえきっちり組めればいいので、楽です。後はレーザーでくり抜く方法があるんですが、これは鋭角が出ないのが難点ですが、ホテルの天井に使われることが多いです。

昨年、御殿場のアウトレットにできた小田急さんのホテル『HOTEL CLAD』に、この三つ組手を付けたのは私です。そこの売店に、非売品としてこの三つ組手の組子細工を作って出したら、欲しいと言う人が多くて、20個くらい作ったものがあっという間に売れちゃったんです。今はちょっとしたブームなのかもしれないですね。三つ組手の組子細工は、何年振りかに作ったのですが、評判がいいのはうれしいです。機会があったらそれを見に来てください。





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