芦之湯にある「きのくにや旅館」は、正徳5(1715)年、紀州(紀伊)藩から小田原藩酒匂に移り住み網元となり、莫大な財を成した川邉段右エ門貞次の三男・忠蔵が創業。屋号の由来はそこにある。江戸時代に刊行された「諸国温泉効能鑑」に「東前頭筆頭」として箱根七湯の中で唯一紹介されている芦之湯温泉の泉質の良さは広く知られており、多くの湯治客で賑わっていた。国学者・加茂真淵、清水浜臣、狂歌師・蜀山人など芦之湯に逗留していた文人墨客たちは、熊野権現の境内にあった「東光庵薬師堂」に集い、地元の文人たちと一緒に詩歌や俳句などを詠みながら、ゆったりと風雅を楽しんでいたと伝えられている。
時は移り、平成4(1992)年。芦之湯に別荘があった元内閣総理大臣・中曽根康弘氏と地元の皆さんの交流のなかで生まれた「第一回芦刈まつり」が開催された。明治15(1882)年頃に朽ち果てた東光庵は、平成13(2001)年に往時の姿に完全復元され、一般公募による俳句大会も始まった。昨年で第26回。毎回、箱根や芦之湯の歴史をテーマにした有識者の講演をテーマにした芦刈まつりは、文化の香り高い往時の芦之湯の姿を色濃く伝えるものでもあった。
それに力を尽くしていた人の一人がきのくにや十二代目当主・川辺ハルトさん(昭和29・1954年 10月26日 〜令和元・2019年9月 19 日 )である。
ハルトさんは、今年の秋に開催することになっていた「第27回芦刈まつり」の準備しているその直前に急逝されてしまった。しかし、数年前からきのくにやの宿帳などを整理するお手伝いをしていた私は、物心つくとすぐに十代目当主である祖父・儀三郎さん(明治34・1985年~昭和60・1985年)から当主として心得るべきことについて厳しい特訓を受けたことなど、折々に興味深いお話をいろいろ伺った。その一つが家業を継ぐ決心をしたエピソードである。
少年時代から楽器演奏が得意だったハルトさんは、高校時代、アメリカ研修旅行の時に現地の学生たちとの交流会でギターの演奏を披露したところ、拍手喝采を浴びた。それからますます音楽にのめり込み、大学時代にはバンドを組み、卒業後もライブ活動に明け暮れる日々だったという。儀三郎さんもしばらくは自由にさせてくれていたが、ある大雨の日に、ハルトさんの車に大きな石が投げ込まれて壊されていたという。
「もう、ビックリしたのなんのって(笑)。でもそれが、『もうそろそろ家業に勤しめ』という祖父の無言の意思表示だったわけです」。
ハルトさんは、平成7(1995)年に十一代目当主の父・暘太郎さんが逝去後、十二代目当主となった。第1回芦刈まつりが開催された3年後のことである。この芦刈まつりは、ハルトさんにとって芦之湯と川辺家の歴史の深さを改めて知る大きなきっかけになり、芦之湯のあるべき姿、未来像に向ってさまざまな夢を膨らませることになった。
ハルトさんは、「天衣無縫」「生まれっぱなしの赤ん坊」「無防備な夢追い人」という言葉がぴったりの人だった。こうと決めたら周囲の人たちの言葉に耳を傾けることなく猪突猛進していく面も多々あったようだが、芦之湯温泉は平成27(2015)年5月1日に神奈川県で初めての「国民保養温泉地」として認定され、未来像の一つを実現させた。そして、次なる夢の「江戸~明治時代の芦之湯温泉を再興させること」、すなわち「滞在型観光地」「湿原地域の活性化」のための計画を策定。地方創生交付金の対象事業となるまでに進めていった。
ハルトさんが描いていた三つ目の未来像は、宮ノ下、芦之湯、芦ノ湖周辺地域の歴史的価値を世界遺産に認めてもらおうという壮大なものであり、地盤固めに取り組みつつあった。しかし、その夢の途中、まさに、平成の終わり、令和の始まりとともにハルトさんはこの世を去った。芦之湯の再生を次の世代に託して…。思い出されるのはハルトさん屈託のないとびっきりの笑顔である。
【美肌の湯 きのくにや】
■〒250-0523神奈川県足柄下郡箱根町芦之湯8
■電話:0460‐83‐7045
■アクセス:箱根湯本駅より箱根町・元箱根方面行きバス約35分「芦の湯」下車徒歩約3分。
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