木地師・田中一幸さん(昭和8・1933年11月3日~)が、ろくろ細工の職人になって、70年余。
箱根登山電車入生田駅から徒歩約5分の一号線沿いにある「箱根ろくろ細工」の工房で、
田中さんは今日も作品作りに余念がない。田中さんが主に手掛けるのは、箱根に古くから伝わる挽物細工の一つである組子細工である。
挽物細工の歴史は、戦国時代にまで遡るといわれ、江戸時代には、箱根のお土産として親しまれていた。特に人気を博したのは、信州松本から湯本に移り住んだ信濃亀吉が天保15(1844)年に創案した、卵型の中から小さな卵が次々に出てくる「箱根十二たまご」。その後、「色変わりだるま」や「七福神」などが生まれ、それらはロシアの工芸品・マトリョーシカのルーツになったといわれている。
田中さんが小学校3年の時に木地師だった父・勝吉さんが戦死。田中さんは、中学卒業後、家業を継いだ。
「木地師が好きだったわけではないですね。昔の人間はみんなそうだと思うけど、長男は親の仕事を継ぐのは当たり前だと思っていたし、やらなきゃ食えないからね」。
戦後、輸出向けのおもちゃが飛ぶように売れた。田中さんは林檎の形をした器を開けると、ティーセットが出てくるおもちゃの製作に追われた。
「1回に100ダースという注文がどんどん入ってね。夜明かししてまで作ったよ」。
休みは月2回。わずかなお小遣いをもらって小田原で映画を見て食事するのが唯一の楽しみだったという。
しかし、1ドル360円の時代が終わると、業界は、徐々に厳しい状況になった。
「その頃に思い切って、苦労ばかりのこの仕事をやめればよかったんだけど、他にしたいこともなかったし、出来ることもないし、やらなきゃしょうがなくてね」と、田中さん。
昭和後期、箱根の七カ所の寺社に木彫の木彫りの七福神が祀られ、新しい観光スポットとして“箱根の七福神巡り”が始まった。田中さんが七福神を手掛けるようになったのは、その時からだ。それまで作られていた七福神はい
わゆる“おもちゃ”だったが、田中さんは、絵描きさんに頼んで七福神のそれぞれの姿を色鮮やかに美しく描いてもらい、“工芸品”の域まで育て上げた。
オランダ商館の医師だったシーボルトが母国に持ち帰った箱根細工の中に、玉子の形をした球体を開けると、片方が“こま”になる「玉子独楽」があった。田中さんは2年前、日本の工芸品収集家の所蔵品を参考にそれも復元した。
「技術がすごいね、と言われることがあるけれど、小田原には俺より上の人がいるから、腕がいいなんて言ったら笑われるよ」。
苦労が多く、木地師として楽しいことはなかったと繰り返し語る田中さんだが、「お客さんが来てくれて、いろいろ話ができることが続けてきて良かったことかな」。
しかし、85歳を過ぎても新しい作品作りに挑戦する田中さんは、まぎれもなく、箱根のただ一人の木地師として“伝説の人”になりつつある。
【箱根ろくろ細工】
■〒250-0311神奈川県足柄下郡箱根町湯本7
■電話:0460-85-5084
■アクセス:箱根登山電車「入生田」下車、徒歩約5分。

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